二月の墓に
2017年 12月 01日
南からの贈り物
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二月の墓に
東京を離れてからというもの、桜に恋い焦がれていた。樹齢の多い立派な桜の大木、町並みに続く桜並木、そんなものを懐かしむことがあった。屋久島の里や、指宿の町中で、染井吉野のような桜も無いことはなかったが、あまり楽しめなかった。恐らく、冬の寒さが足りないのだろう。見事には咲かないし、少し寂しいものだった。
その代わり、まずは緋寒桜がこちらでは咲いた。沖縄などにも多い緋寒桜は濃い花の色で、私の恋い焦がれる桜のイメージとは異なっていたが、それは春を待つ桜であった。南の地で桜と言えば、緋寒桜と言っても過言ではない。昨年、夫と二人何も知らず、母の亡くなる直前にも緋寒桜を楽しんでいた。
緋寒桜を楽しんだその指宿の植物園で、母の亡くなった後に、早咲きの、春一番の伊豆の踊り子という桜を眺めた。伊豆の踊り子の花の色は、緋寒桜とは違って春らしく柔らかく、そして、染井吉野よりも華やかでさえあった。暖かい日差しの中で、しかしまだ二月だというのに、春爛漫な気配を漂わせていた。そんなに大木ではなかったし、桜並木という訳ではなかったが、その数本の桜が、母を亡くしたばかりの私を、明るい気持ちにさせてくれた。
父が亡くなったのも二月であった。その二月の終わりには、指宿ではそろそろ白い大島桜が咲く頃となる。それは近くの小高い山である魚見岳の道を登りつめた所に、すっくと立っていた。これも私の恋い焦がれる桜とは違ったが、凛とした美しさはあった。
手鏡や二月は墓の粧ひ初む 石田波郷
その粧い、それは一体どんなものだろう。
早春とはなるものの、父母の亡くなった二月の福岡では、底冷えのする日もあったし、雪がちらつく日もあった。が、母の住まい近くでは、白梅が咲き始めてもいた。
二月の墓に、そんなけなげな白梅や、うちの庭にある愛らしい紅梅もいいかもしれない。が、福岡の父母の墓に、南国に住む私からは早咲きの桜を送ろう。夫と見た、あの美しく華やかな伊豆の踊り子の桜を母に、落ち着いた穏やかな感じのする白い大島桜を父に、手向けてみたいと思ったりする。母は何事にも前向きで明るく、父は物静かで優しかった。
母の最後の住まいを手放した折に、ポストのネームプレートを記念にもらった。その旧姓の字面を眺めて、もともとは、祖父、祖母、父、母、私の五人の家族であったこと、その家のあったことを思い、しみじみとした。また、夫と私の田舎暮らしにより、父母の晩年には少し番狂わせをさせたのではと、やや胸の痛い思いもするのであった。
ところで、私は、俳句は父が亡くなった後より始めた。「晶」が立ち上がってからだ。同人になってからは、「晶」をお供えしたりもしている。父は、母よりも、俳句に関心がありそうな気がしている。父に私の句を読んでもらったら、どんな感想をくれたかしらと思う。母は母で、私が俳句をやっていることを、親戚に話題にしてくれてもいたようだ。
父が亡くなって、父の句を幾つも作ったが、母の句はあまり出来なかった。清子さんはお父さん子だったからと言われることもあったが、それが、母を亡くして、母の句もたくさん作るようになった。亡くなった父母を詠む時、それが至らない娘から父母への、精一杯の詫び状、そして感謝状ともなっているといいのだがと思う。
恋い焦がれる桜への思いが、いつか薄らぐことはあるだろうか。どうだろう。今ひとつ確かに言える事は、南国の桜たちはここにあり、二月という忘れがたい月に、これからも毎年、咲いてくれるであろうということだ。
(2016年2月5日発行、季刊俳句同人誌「晶」15号に掲載)
by kiyoko_ki
| 2017-12-01 14:05
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