カテゴリ:南からの贈り物( 7 )

タニワタリノキ

南からの贈り物


タニワタリノキ
                                 

 朝早く涼しいうちに散歩に出かける。しばらく歩き回って家に戻る頃になると、南の島の真夏の日差しの強さはもう容赦無くなっていて、じりじりと長袖シャツの中の肌をも焼いた。それでも、自宅近くの狭い道に差し掛かると、木々の枝は低く木陰を作ってくれていてほっとした。近くに迫った頭上の熊蝉はシャンシャンシャンと物凄く煩いのだが。
 屋久島の庭の横にあった小さな谷川沿いにも背の高い自然林が生い茂っていたので、川に面したあたりは、熊蝉の声がとても響いた。その谷川に面した部屋は景色は良く、せせらぎも涼しげで、客人を迎えるのにはお誂え向きだった。
 引っ越して来て初めての夏、立て続けに四組の訪問客があった。そのうちの一人に、植物で繋がりのある友人がいた。彼女は樹木に詳しかった。その彼女が、谷川沿いの庭に影を落とす一本の木に気が付いて教えてくれた。タニワタリノキだと。よく見ると、何本かあるのもわかった。夫も私も、タニワタリノキなどというものを知らなかった。それもそのはずで、その木は、日本では九州南部から南西諸島にしか分布しないものだった。残念なことに、友人が来訪したのは花の時期より少し早過ぎた。


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 夫と私は、タニワタリノキの咲くのを心待ちにした。蕾はまん丸の球形で、それが日増しに大きくなっていった。その球形は小さな花の集合花だった。ある日を境に、つんつんと雌蕊を突き出して、真っ白い花をいっせいに咲かせた。なんて面白い花なんだろう。二人で、こんな素敵な花が庭に咲くのを喜んだ。高い木々からは、熊蝉の声が降り注いでいた。


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 何年かするうちに、夫は、屋久島の野生植物の写真の絵葉書を土産物として出すようになったが、その中にタニワタリノキの花の写真もあって、それは一番人気があった。ある時知人が、これは何という木なのかと、枝を手にしてやって来たことがあった。夫と私は思わず微笑んで、これが絵葉書の中にあるタニワタリノキだと教えた。彼女は、自分のところのぽんかん畑のやはり谷川沿いに、タニワタリノキが咲いているのに初めて気が付いたのだった。屋久島は川の多い島だった。その屋久島の谷川沿いには、タニワタリノキはけっこう多かったのだが、案外、知る人は少なかったりするのであった。
 谷川を覆うように茂るのが、タニワタリノキだった。


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 庭の横の小さな谷川はとっておきの場所だった。夫は庭仕事が終わると、川で手足を洗い、道具を洗った。浅い川ではあるが小さな滝壺もあり、子供が遊ぶにもちょうど良かった。夫の甥の子供達が来た時には、その小さな川で大騒ぎをした。
 私も遊ぼうと、一人ざぶんと滝壺に浸かった。水温が低いので、長く涼むにはウェットスーツを着て入るとちょうど良いくらいだった。静かに水に身体を沈ませていると、透明な蝦が素足をくすぐった。何という名前の蝦だろう。筋模様のあるものだった。手長蝦もいるようだ。それに鯊もいた。海から昇って来た坊主鯊だろうか。夫は、庭仕事の合間に大きな鰻を見たこともあると言っていた。鬱蒼と覆いかぶさっている木々の影が水面に揺れ、暑い夏の一日もゆっくりと流れて行くのだった。


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 タニワタリノキの花はニッキのような香りを一面に漂わせた。それで花が咲いたのに気付くこともあった。開花の期間はことのほか短かかったが、黒い大きな揚羽蝶が訪れたりもした。それはきらきらと輝く川の水の煌きのような、夏の果てようとする一瞬の出来事のようでもあった。やがてあっという間に、花は終わりを告げた。
 熊蝉の声はまだ響いていた。が、季節は少し移ろいだのだろう。夏休みの客人ももう帰ってしまった。夫は庭仕事を、私は散歩を、また始めるのだった。
 
  谷渡る木々の記憶の蟬しぐれ            清子

(2016年8月5日発行、季刊俳句同人誌「晶」17号に掲載)






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by kiyoko_ki | 2017-12-15 09:49 | 南からの贈り物 | Comments(0)

南からの贈り物


                                 

 「その李はこっちでは生らないよ。」
 屋久島のうちの裏のほうに住んでいるおばさんが、うちの庭の李の木を見て、笑いながら言うのだった。その前に、移り住んで間もなくの頃、李の木を分けてあげようと言ってくれる人もあったが、うちにはうちの李の木があるので断ってしまった。が、夫が取り寄せて庭に植えたそれは本土のもので、屋久島で言う李とは違うのだった。
 屋久島の李は、奄美プラムなどとも呼ばれるもので、台湾原産のものだった。花は本土のそれとほとんど変わらないが、実が私のそれまで知っていたものとは違った。黒っぽい濃い赤い実なのだった。
 かわいそうに、うちに植えられた本土の李は、何年経っても、花もいつ咲かせればいいのかわからない様子で、やはり実を付けることも無かった。
 梅雨間近、照葉樹林の中に、むうっと香りをさせて椎の花が金色に輝く頃、県道に沿う無人市のあちらこちらで、黒っぽい李が並んだ。無人市の野菜や果物は大抵一袋百円だったか。お金を入れる箱にちゃりんと百円玉を入れて、お目当てのものを買う。


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 初めて李を買ったときは、芋焼酎に氷砂糖を入れて李酒を作るといいよと教えてもらった。適当に作ってみたが、時間をかけてゆっくり李の赤い色が焼酎に移り、美しく美味しい李酒が出来あがった。そのお酒を、何年かに渡ってちびりちびりと大切に飲み、最初は赤い色が綺麗だったが、最後のほうには、熟成したかのような琥珀色になった。


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 ジャムを作ったこともあったし、ジュースなどにもしたり、毎年、毎年、李を楽しめた。そのうち、知り合いから李をもらうこともあった。
 指宿に来てからも、こちらの李も屋久島のものと同じと判って、ああ良かったと嬉しかった。
 屋久島を思い出させるような激しい雨の合間、近所の人が親戚の畑で収穫したという李をくれた。早速、私はジュースにした。鬱陶しい梅雨に李ジュースを味わうのは格別である。勿論、真夏にも大いに喉を潤し、晩夏になり残り少なくなるのを惜しむのだった。そんなふうにその夏も李をたんと楽しんだ。
 指宿の地元の八百屋にもその李を見つけたし、気が付けば、その木はけっこうあちらこちらで見かけるのだった。


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 こちらで少し、あちらで少しともらった李を足して、とうとう変わった李ジャムも作った。八角とシナモンのスパイスを入れてみたのだ。そんなジャムもなかなか面白いのだった。李を煮詰めてスパイスを入れると、出来上がった時には、黒に近い色になった。
 料理に使えるようなフルーツソースとして作っておくのもいいかもしれない。そのソースを、肉や魚のソテーに添えてもいいし、もちろんデザートに使うのもいいだろう。きらきらと輝く、濃い赤いゼリーもいいし、生クリームと合わせて、シックな大人っぽいピンクのムースも出来るかもしれない。
 田舎暮らしには、デパ地下も無ければ、お洒落なカフェなどというものもほとんど無い。食べることを楽しみたかったら、自分で作ることが一番だ。地元の農産物、肉、魚など、その土地ならではの調理の仕方、楽しみ方もあろうが、時にはそれに自分で仕入れたプラスアルファを足してもいいものである。
 もちろん第一には、新鮮な食材のあることが、この上なく幸せなことである。

  ひと籃の暑さ照りけり巴旦杏       芥川龍之介

 李には種類がいろいろあるようだが、巴旦杏もその一つだそうだ。こちらの李とは少し違うだろうが、こちらの李にもこんな風情がある。山と盛った李をさて、今年はどんなふうに楽しもうか。


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(2016年5月5日発行、季刊俳句同人誌「晶」16号に掲載)





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by kiyoko_ki | 2017-12-10 10:31 | 南からの贈り物 | Comments(0)

二月の墓に

南からの贈り物


 二月の墓に 
   

 東京を離れてからというもの、桜に恋い焦がれていた。樹齢の多い立派な桜の大木、町並みに続く桜並木、そんなものを懐かしむことがあった。屋久島の里や、指宿の町中で、染井吉野のような桜も無いことはなかったが、あまり楽しめなかった。恐らく、冬の寒さが足りないのだろう。見事には咲かないし、少し寂しいものだった。


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 その代わり、まずは緋寒桜がこちらでは咲いた。沖縄などにも多い緋寒桜は濃い花の色で、私の恋い焦がれる桜のイメージとは異なっていたが、それは春を待つ桜であった。南の地で桜と言えば、緋寒桜と言っても過言ではない。昨年、夫と二人何も知らず、母の亡くなる直前にも緋寒桜を楽しんでいた。


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 緋寒桜を楽しんだその指宿の植物園で、母の亡くなった後に、早咲きの、春一番の伊豆の踊り子という桜を眺めた。伊豆の踊り子の花の色は、緋寒桜とは違って春らしく柔らかく、そして、染井吉野よりも華やかでさえあった。暖かい日差しの中で、しかしまだ二月だというのに、春爛漫な気配を漂わせていた。そんなに大木ではなかったし、桜並木という訳ではなかったが、その数本の桜が、母を亡くしたばかりの私を、明るい気持ちにさせてくれた。


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 父が亡くなったのも二月であった。その二月の終わりには、指宿ではそろそろ白い大島桜が咲く頃となる。それは近くの小高い山である魚見岳の道を登りつめた所に、すっくと立っていた。これも私の恋い焦がれる桜とは違ったが、凛とした美しさはあった。

  手鏡や二月は墓の粧ひ初む        石田波郷

 その粧い、それは一体どんなものだろう。
 早春とはなるものの、父母の亡くなった二月の福岡では、底冷えのする日もあったし、雪がちらつく日もあった。が、母の住まい近くでは、白梅が咲き始めてもいた。
 二月の墓に、そんなけなげな白梅や、うちの庭にある愛らしい紅梅もいいかもしれない。が、福岡の父母の墓に、南国に住む私からは早咲きの桜を送ろう。夫と見た、あの美しく華やかな伊豆の踊り子の桜を母に、落ち着いた穏やかな感じのする白い大島桜を父に、手向けてみたいと思ったりする。母は何事にも前向きで明るく、父は物静かで優しかった。
 母の最後の住まいを手放した折に、ポストのネームプレートを記念にもらった。その旧姓の字面を眺めて、もともとは、祖父、祖母、父、母、私の五人の家族であったこと、その家のあったことを思い、しみじみとした。また、夫と私の田舎暮らしにより、父母の晩年には少し番狂わせをさせたのではと、やや胸の痛い思いもするのであった。
 ところで、私は、俳句は父が亡くなった後より始めた。「晶」が立ち上がってからだ。同人になってからは、「晶」をお供えしたりもしている。父は、母よりも、俳句に関心がありそうな気がしている。父に私の句を読んでもらったら、どんな感想をくれたかしらと思う。母は母で、私が俳句をやっていることを、親戚に話題にしてくれてもいたようだ。
 父が亡くなって、父の句を幾つも作ったが、母の句はあまり出来なかった。清子さんはお父さん子だったからと言われることもあったが、それが、母を亡くして、母の句もたくさん作るようになった。亡くなった父母を詠む時、それが至らない娘から父母への、精一杯の詫び状、そして感謝状ともなっているといいのだがと思う。
 恋い焦がれる桜への思いが、いつか薄らぐことはあるだろうか。どうだろう。今ひとつ確かに言える事は、南国の桜たちはここにあり、二月という忘れがたい月に、これからも毎年、咲いてくれるであろうということだ。

(2016年2月5日発行、季刊俳句同人誌「晶」15号に掲載)






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by kiyoko_ki | 2017-12-01 14:05 | 南からの贈り物 | Comments(0)

石蕗

南からの贈り物


石蕗


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 石蕗の俳句に、暗い印象のものも多いのが、私にとっては意外だ。
 私のよく見知った、鹿児島の屋久島や、今住んでいる指宿近郊の、石蕗の一面に咲くその明るさは眩しいばかりだ。確かに、東京に住んでいた頃、実家の玄関脇に植えられていた石蕗は、咲いたかどうかも記憶に怪しいくらいであったが、そういうほんの少し植えられたものと、南国の地に群生してのびのびと咲くものとでは、人に与える印象もとんでもなく違うものなのだろう。
 海鳴りの響く日溜りで咲く石蕗なども、実に明るい気持ちにさせてくれるものである。そして、こんな句の心情がよくわかるのだ。

  石蕗咲くや心魅かるる人とゐて        清崎敏郎

 以前住んだ、屋久島の家の周りでは、石蕗がたくさん、見事に咲いた。周り中黄色くなって、温かな気分に包まれたものである。その黄色は幸せの色だとも思った。
 花は切り花にしても長持ちはせず、咲いているままを楽しむのが一番だった。
 屋久島の北の方より咲き始め、やがて島の南の方にも咲くようになると、島をぐるっと一周出来る県道に車を走らせる時など、島中が黄色く染まったような感じさえした。


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 石蕗は、食材としても人気があった。
 私は、当時、美容院ではなく床屋に通っていたのだが、そこのお姉さんが、春先になるといつも私に尋ねた。つわはもう炊いたかと。
 お姉さんは辛口の話が面白い人だった。そして、何より集落の情報には長けていて、いろいろな話を聞かせてくれた。引っ越して来て最初の正月明けには、今日は、家に祝い申そうが来る日だから、祝い申そうを謡ってもらったら、ご祝儀をあげて、お酒を振る舞うんだよと教えてくれた。それを教えてもらうまで、そんなものが家に来るなんて、全く知らなかった。お姉さんは面倒見のいい人でもあったのだ。 
 さて、話は石蕗だ。
 床屋のお姉さんだけではない。集落で出会う顔見知りのお姉さん達に、口々に、もうつわは炊いたか、食べたかと聞かれるのであった。
 石蕗の若葉が出かけているくらいのものの、根元のほうの茎をぽきっと折る。葉はむしり、茎の皮をすうー、すうーっと剥いていく。そんな作業を続けると、爪が真っ黒になる。水に漬けてあく抜きを少しする。


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 その季節には、家の周りでも、散歩に出かけても、つわを取る人の姿が見かけられた。そして気が付くと、私も散歩の最中に、石蕗の若葉を見つけると通り過ぎることが出来ずに、一本、また一本と、歩きながら手にして行くのだった。
 きっとお姉さん達は、鹿児島の甘い味付けで煮物に入れたりするのだろう。私は、あっさり煮てすりごまを散らしたりしてみたが、優しい野の幸といった感じで、それも美味しかった。
 隣の集落の市の、知らないおばちゃんとの立ち話では、若葉を天ぷらにしても美味しいと教えてもらったこともある。庭やご近所からなどのさつまいも、山芋、さやえんどうと人参としめじ、三つ葉、蓬、それらと共に、石蕗の若葉の天ぷらを揚げたが、ほのかな苦味と香りが美味しかった。これも、なかなか乙なものだった。
 今の指宿の家の庭にも石蕗があるのだが、それを食べないのかと聞かれることもある。私はまだ、こちらの庭のは食べたことがないのだ。最近知り合った奄美大島出身の人も、我が家の石蕗を見て、奄美でよく食べていたことを話してくれた。
 春先には、スーパーの地元野菜のコーナーに石蕗の茎が並ぶこともある。
 あたり一面、何処でも取り放題の屋久島だったが、指宿近郊の公園では、次のような看板も立つ。
 「ここのつわぶきは観賞用なので取らないでください。」
 これには笑ってしまう。花としても、食材としても、愛される石蕗である。

(2015年11月5日発行、季刊俳句同人誌「晶」14号に掲載)






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by kiyoko_ki | 2017-11-23 11:37 | 南からの贈り物 | Comments(0)

幻のたこぶね

南からの贈り物


幻のたこぶね


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 岬まで行ってみるけれども一緒に行くかと、夫が聞いて来た。
 亡くなった母の物など片付いていないので、出かけるのもあまり気が進まないが、家に閉じこもってばかりいるのも良くないだろう。それで薦められるまま、出かけてみることにした。と言っても、家から車で五分である。
 夫は見たい植物があるのだと言う。私は浜辺を歩くことにした。
 風も無く、海は穏やかだった。浜は潮がだんだん引いて来る時刻だったようで、打ち上げられた貝殻や海藻などが続いているのが列をなしている。波が静かに打ち寄せる波打ち際が気持ちが良い。裸足になって、波打ち際をたまに海水に足を浸けながら、岬の先端へ向けてゆっくりと歩いて行った。


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 だいぶ歩いた頃、濡れた砂の上に、面白い物を見つけた。それは蛸のようだが、貝殻を背負っている。もう生きてはいないようだったし、大事に持ち帰ることにした。だいぶ離れてしまった夫の居る場所まで向かった。夫は、ハマゴウやテリハノイバラやハマヒルガオのある浜の奥で、お目当てのハマボウフウの写真を撮っているのだった。私は、その蛸を差し出してみせた。
 「たこぶねかな、かいだこかな。面白い物を拾ったね。」と、ビニール袋を出してくれた。夫のカメラバックには、いつもビニール袋が用意されている。それは、植物の果実や種を入れる為であったり、貝殻を入れる為であったりした。
 家に戻って、図鑑などで調べる前に、リンドバーグ夫人の『海からの贈物』を広げてみた。それにたこぶねは載っていた。

 浜辺で見られる世界の住人の中に、稀にしか出会わない、珍しいのがいて、たこぶねはその貝と少しも結び付いていない。貝は実際は、子供のための揺籃であって、母のたこぶねはこれを抱えて海の表面に浮び上がり、そこで卵が孵って、子供たちは泳ぎ去り、母のたこぶねは貝を捨て新しい生活を始める。(『海からの贈物』「たこぶね」リンドバーグ夫人、吉田健一訳)

 が、後日、図鑑などよく調べてみて、それはたこぶねではなく、似た種類のアオイガイ、別名かいだこのほうであることがわかった。背負っている貝殻が少し違っていて、しかし、生態は似たようなものであるらしい。
 幻のたこぶねではあったが、それらの母性を思う時、亡くなった母のことにも考えが及ぶ。
 実家に長らく居座っていた私が、ようやく遅くに結婚し、母は肩の荷を降ろしたようであった。
 しばらくして、東京を離れ田舎暮らしを始めた夫と私であったが、両親は同じ九州でも、二人の生まれ故郷の福岡に東京より戻って暮らすことを選んだ。父が亡き後、母は福岡の都会でのマンションの気ままな一人暮らしを好んだ。
 母は、周りの人にいつも、ピンピンコロリで逝くのよと言っていたそうである。また、私に迷惑をかけてはいけないとも言っていたようである。それで、少しばかりの老いはあったものの、本当に誰にも迷惑をかけることなく、亡くなる前日まで元気でいてくれた。
 久し振りに会った年末年始、母の足の爪が伸びているのに気が付いて切ってあげた。膝が曲げにくくなっていたので、自分で切りずらかったようだ。娘に足の爪を切ってもらうようになるとは思ってもみなかったと、母は言った。それが、母との最後の思い出の一齣となった。


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 さて、持ち帰ったかいだこだが、写真を撮ったあと、蛸のほうは、顔見知りの猫に見つかって、それはそれは美味しそうに食べられてしまった。それは、海の物を土に返すよりも、よっぽど良かったに違いない。


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 残された貝殻は美しい。光に透かせて、その繊細な襞の織りなす影に見惚れる。が、もっと稀なるたこぶねも、いつか出会える時があるだろうか。それは、生涯に一度あったとしたらとても幸運だ。浜辺歩きに、幻も求めてみようか。

(2015年8月5日発行、季刊俳句同人誌「晶」13号に掲載)






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by kiyoko_ki | 2017-11-15 14:41 | 南からの贈り物 | Comments(2)

ヤブサメ

南からの贈り物


ヤブサメ


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 屋久島の早春、木の芽流しが始まる。タブノキは赤い葉を、ハマビワは銀白色の葉を広げ始める。そんな照葉樹林の木々の芽吹きの時期の雨を、屋久島では木の芽流しと呼ぶ。


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 木の芽流しが続いた、湿潤で生暖かなある雨上がりの朝、しばらくぶりにベランダに洗濯物を干していると、モッチョム岳の麓にある家の、庭の横に流れる小さな川の向こうの藪より、シシシシシと声が聞こえて来る。ヤブサメの囀りだ。そのシシシシシは虫の声のようにも聞こえるが、尻上がりに調子の上がって行く囀りを聞いていると、耳にする嬉しさが込み上げて来る。
 ヤブサメは、ウグイスの仲間だ。藪の地面近くに潜んでいるようだった。川向こうということもあり、姿を目にすることは無かった。が、その囀りを聞くだけで、見たことは無いが、愛着が沸くのだった。
 ヤブサメは、夏鳥として、東南アジアなどより、日本に飛来するそうである。早くも屋久島の木の芽流しの頃、里で聞かれた囀りは、夏には屋久島の標高の高い山で聞かれるという。そんな頃には、日本の各地の山や藪などで聞かれることであろう。
 屋久島より移り住んで来た、今の指宿の家は、住宅街の一角にある。車で十分程出かけた林で、昨年の夏のいつ頃であったか、ヤブサメの囀りを聞けた。しみじみ懐かしかった。あの屋久島の朝の思い出が蘇った。
 夫が、「ヤブサメは高尾山でも聞けたね。」と言う。そうだったっけ、私は記憶の糸を手繰り寄せる。生まれ育った東京で、夫と出会ってからは、共に中央線に乗って、高尾山によく通った。ヤブサメの囀りの聞こえたのは、渓流沿いの六号路であろうか、四号路の吊り橋のあたりだったであろうか、それとも日影沢であったろうか。考えを巡らせていると、そう、確かに、高尾山でヤブサメを聞いていたのだなと思えて来るのだった。それを初めて聞いたのは、やはり、高尾山においてであろう。その時、それがヤブサメという鳥であるということを、夫に教えてもらったに違いない。私は、ヤブサメの囀りが好きになった。それが、東京より屋久島に移住して、家のベランダから聞けた時は、とても嬉しかったのだ。屋久島の日々を重ねるうちに、東京の高尾山でのヤブサメの囀りの記憶が、ちょっと遠のいていたのかもしれない。
 もう指宿でも、ヤブサメの囀りが聞ける頃だろうか。囀りを聞くにはやはり朝がいいだろうか。朝、書斎にこもっている夫は出かけようとしないので、そうだ、私一人、歩いて近くの魚見岳に行ってみようかしらと思い付く。あそこならば、ヤブサメも居るに違いない。魚見岳は、時には砂州で繋がる知林ヶ島や、開聞岳や、桜島も望める小高い山だ。


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 ウグイスなどとは違って、住宅街の庭などには現れないヤブサメである。たとえば山道を降りながら、その囀りを耳にするのが夕暮れ時であったらどうであろうか。

  やぶさめや漸くにして里曲の灯      木津柳芽

 暗くなりかけた山道にあって、その囀りが続くばかりでは心許ない。やっと人里の灯の見える場所に出て、安堵の気配がうかがえる。
 ところで、ヤブサメの囀りは高周波なので、年齢を重ねて来ると、その囀りが聞こえなくなる人もあるらしい。実は、このエッセイを執筆途中に、急に母を亡くした。母はとても元気な人であったが、少し耳が遠くなりかけていた。ヤブサメの囀りは、母には聞こえなくなっていたかもしれない。
 私より一回り年上の夫も、「清子がヤブサメの声がすると言うのに、それが私には聞こえないという時が来るのだろうか。」と呟く。そんな日も、いつか来ることもあるだろうか。が、それまでまだ、もうしばらくはあるだろう。遺された私と夫で、仲良く元気に暮らして行こうと思う。その思いを、亡き母に伝えたい。

(2015年5月5日発行、季刊俳句同人誌「晶」12号に掲載)







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by kiyoko_ki | 2017-11-10 11:13 | 南からの贈り物 | Comments(3)
南からの贈り物

はじめに


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季刊俳句同人誌「晶」に、「南からの贈り物」という連載のエッセイを書いていました。
2015年5月5日発行の12号より、2017年8月5日発行の21号までです。

エッセイを書くということなど、それまで経験がありませんでしたが、意外にも書く作業は楽しかったです。
東京を離れて、屋久島で暮らしたこと、今の指宿でのことなど、書く題材は幾らでも思いつきそうでした。
季刊誌なので年4回、10年続けば40回。25年続けば100回です。
100回までも書き続けたいとも思っていました。

ところが、その十分の一、10回書いたところで、思うところあって退会したので、
残念ながら「南からの贈り物」の連載のエッセイは終わりました。

エッセイを書くことを勧めてくださった代表、同人誌に携わった方々、
そして何よりもこの連載を楽しみに読んでくださっていた方々に感謝しています。

せっかくなので、このブログに載せてみることにします。







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by kiyoko_ki | 2017-11-09 18:33 | 南からの贈り物 | Comments(0)

エトセトラエトセトラ・・・きよこ


by kiyoko_ki
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