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母の顛末

こんな時ですが、ブログを書くというのは私の日常なので、

備忘録のようなものでもあるので、書いて行きます。


かごしまフラワーパークには1月28日に行きました。

その時の写真をお見せして行きます。

母の顛末_d0156557_9173884.jpg

緋寒桜はこのくらい咲いていました。

鹿児島では、春に先駆けて咲く寒桜ですね。


31日のお昼を食べ終わるかなという頃、
母が倒れて救急車で運ばれたという電話を、マンションの管理室より受けました。

母は近所のスーパーに買い物に行く途中でした。
で、まだ詳しいことはわからないのですが、私は福岡へと。

その時は、
レース編みでもし過ぎて、ちょっと疲れてふらっと来たんじゃない?
死ぬようなことは無いと思うから、じゃ、行って来ます、と出かけました。

が、一時間に一本しかない指宿枕崎線の途中で、何本か携帯に電話が入ってくるのです。

やっと鹿児島中央駅に着いて、ちょっと落ち着いて座って折り返し電話をしてみると、
違う病院に搬送されていて、そこの先生が、
お母様は、腹部大動脈瘤の破裂です。今から手術に入ります、と。

すぐに新幹線に乗り、福岡へ。
病院は天神なので、博多駅からタクシーで病院へ向かいました。

手術の終わりかけ、先生のおひとりが出てこられて、説明をしてくれました。
母は、お腹に大動脈瘤を三つも持っていたそうです。
そのひとつが破裂したそうなのでした。

手術はしたものの、不穏な様態となっていて、今晩が山とか。

手術が終わったのは夜の8時近く。
集中治療室に運ばれた母を見舞って、病院の家族待合室のソファで横になることに。

そして2月1日午前2時頃、先生に呼ばれて、その30分後くらいに、母は亡くなりました。

途中、途中、母の一番上の姉の所の従姉妹に電話をし、もちろん夫にも電話をしました。

病院には、母の弟、私の叔父には来てもらったのですが、夜には帰られたので、私ひとり。

もしものときに携帯に登録してあった、葬儀社を紹介してくれるコープに電話して、
しばらく霊安室に母と共に。

その後、葬儀社の車で、葬儀場へ母の遺体とともに病院を去りました。

朝になって、お寺さんに電話をして、お通夜、葬儀の日取りを決めたという訳です。

お寺さんは、すぐに枕経をいうのをあげに来てくれました。

ここまでは私、ひとりだったのよ。

ま、それからは、
母の弟、母の姉も娘、つまり私の従姉妹と共にやって来て、その他の従兄弟達や、
父のほうの親戚も来てくれて、助かりました。

その母の姉、89歳ですが、私がその伯母のことを心配していたのですが、
びっくりして涙も出ないと笑っていて、ほっとしました。

その合間、私は、葬儀社とも打ち合わせ。

夫はやっと、1日の2時半頃、福岡へ到着。

まずは、母のマンションで、母の遺影にする写真をプリントしてもらったり、
あともうひとつ、思い出の写真コーナーのところに飾る、
2001年スイス、2014年オランダゴッホ(の彫像)とともに、の写真を、
夫にプリントしてもらいました。

この時、私は、今回の福岡でやっと初めて母のマンションへ来ることが出来たのですが、
リビングの電気はつけっ放し、床暖房もついたままでした。

本当に、ちょっとそこまで買い物へと出かけた母だったのよね。

その後は、夫を連れて葬儀場へ。
納棺の儀とかしてもらって、すごく母を綺麗にしてもらいました。
82歳でしたが、若々しいお顔になりました。
母が凄く美しい。
満足な笑みさえも浮かべているようで。

その夜は、母ひとりにしてしまいますが、私は寝ていないので、
夫と共に母のマンションで寝ました。

翌2日通夜、3日葬儀、火葬場、初七日と、終わったのでした。


今朝は、夫が、指宿のときと同じように、朝の果物をむいてくれました。

2日月曜日に、母が頼んだコープのヨーグルトや牛乳などが届いていたので、
それらも朝食にしたところです。

母の顛末_d0156557_9193563.jpg

月曜日に届いた、コープの注文です。

なまこなんてのがあって、私はなまこが好きなのですが、母も好きだったのかしら?

知りませんでした。
by kiyoko_ki | 2015-02-04 09:19 | 福岡