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夕焼け

南からの贈り物

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夕焼け
                              
  
 写真を探していた。父方の祖父母の若い頃のもので、ちょっとよそ行きの写真館で撮ったものだ。母が亡くなった後、随分と素早くその住まいを片付けて引き払ったりしたので、てっきりその時捨ててしまったのではないかとも思っていた。

  古写真失せし部屋より秋夕焼                清子

 その後、失くしたと思った祖父母の写真はひょっこり出て来た。
 夫にも不注意により失くしたものがあった。が、それは出て来なかった。夫の、もう何年も会っていない、幼かった頃の息子からのプレゼントの小銭入れだ。
 それを失くしてしまったと気が付いた日、夫は今日は夕焼けが綺麗に出そうだからと言って、いつもの池に一人出かけた。その日は、私も夕焼けを共に見たいと思った。何かを共有したい気持ちだった。それで夫の後をついて行き、池のほとりに佇む夫に並んだ。儚げな秋の夕焼け雲が広がって淡く消えて行く。二人とも無言だった。


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 家の近くのその池は、夕焼けの写真を撮るのには絶好の場所だ。夫は、夕焼けの出そうな日には足繁く通う。池の西側には小高い丘陵がありそこへ夕日が落ちて行く。夕焼けは、雲が多く出ている日に劇的に美しくなったりする。それが池に映ると、天と地の二重の夕焼けがまた素晴らしい。


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 指宿に引っ越して来て良かったことの一つは、夕焼けを楽しめることだねと夫は言う。池はすぐ近くで、行けばもちろんいいのであるが、我が家の西側は開けているから広い空が望め、家に居ながらにしても西の空の夕焼けを楽しめるのだった。
 大型台風が迫っていたある日、恐ろしいくらいの真っ赤な空が広がった。私は思わず外に飛び出して西の空を仰いだ。家も人も赤く染まリ、暫しこの世とは思われないような世界に浸った。
 屋久島では、お向かいの畑に高い防風林があったから、家や庭からは西の空の夕焼けはあまり楽しめなかった。それでも、二階にあった台所より夕食の支度の手を止めて、北に聳えるモッチョム岳を望むベランダに出て、夕空を眺めることがあった。ある年の七夕の日に、北の空が夢見心地な水色やピンクや薄紫がたなびく空になり、モッチョム岳が黒いシルエットとなった。ベランダより南を望めば、夏の海の上に入道雲がコーラルピンクに染まるのを目にすることもあった。
 夫は夕方にかけて庭仕事をする日がほとんどだったから、夏の夕焼けの頃には、今日も暑い一日が終わってやれやれと庭でほっとして空を眺めていたようだ。ある日、夫に呼ばれて庭に出てみると、モッチョム岳に不思議な夕焼け雲が現れていた。まるでモッチョム岳に炎が立ち上っているようだった。
 そんな風に、屋久島での夕焼け空もいいものではあったが、少し歳を経て来た、今の暮らしでの、西の空の夕焼けにますます心奪われることも多くなった。


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 一人で見る夕焼けがある。二人で見たい夕焼けもある。二人で見て多くは語らなくとも、同じ夕焼けを見たという思いが残る。一人だったら、夕焼け空の下ただただ佇むだけでもいい。
 夫は今年古希を迎えた。夫の娘からはお祝いのパジャマが届いた。そのお祝いが自分のことのように嬉しい。
 死んだら葬式も墓も不要と夫は言っている。どちらが先に逝くかはわからないことだが、一人の暮らしになることなども考える。私もあと二年で還暦だ。そろそろ老い支度を始めても早過ぎることはない。人生の終盤に向けて、少しずつ整えて行きたいと思うこの頃である。

(2017年8月5日発行、季刊俳句同人誌「晶」21号に掲載)






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by kiyoko_ki | 2018-03-21 17:45 | 南からの贈り物 | Comments(0)

オキナワチドリ

南からの贈り物


オキナワチドリ
      

 隆起サンゴ礁の岸に、春の波が寄せては返す。ことのほか日差しは強く、きらきらと海面が光り輝いている。ふとその先に目をやると、小さな舟が通り過ぎて行くところだった。
 夏には、そのサンゴ礁の天然のプールが少年たちの格好の遊び場となる。他には、春や秋の大潮の頃に屋久島では磯もん採りと呼ばれる貝採りの大人達が訪れるくらいで、普段は静かな海岸であった。その静かな海岸に、夫と私はよく町への買い出しのついでに立ち寄り、そこでお昼にした。
 隆起サンゴ礁の海岸の続きには、天然の芝地が広がっていた。その芝の中に、毎年春に楽しみにしているオキナワチドリという蘭が咲いた。


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 草丈が低いので、身を屈めて芝を掻き分け探して行く。
 ピンクの丸い蕾が開くと、まるで手足を広げた人形のような愛らしい花が咲いた。その可愛らしいピンクの花には濃い紅色のそばかすのような点々があった。その花によってピンクの濃いもの、白っぽいものの差はあるが、咲き始めが一番鮮やかで美しかった。


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 オキナワチドリの花の期間は比較的長い。その前後には、リンドウの仲間の、小さな小さなリュウキュウコケリンドウも一緒に見ることが出来る。


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 淡く儚い水色で、こちらは本当に小さく花は米粒くらいだ。曇りの日には花を閉じていたりする。踏みつけないように注意して楽しむ。


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 オキナワチドリの花の盛りが過ぎてしばらくすると、今度はシマセンブリというこれまた小さな花が咲く。こちらは赤紫色で、やはりリンドウの仲間でセンブリと名前は付くものの、センブリとは異なる、また違った趣のある魅力的な花である。これも昼頃に晴れてくれないと花は開かない。
 これらの小さな草丈の花達はなかなか貴重な植物で、掻き分けた芝の中に、またひっそりとその花達を埋もれるように隠し、どうぞいつまでもこの地で花を咲かせ続けますようにと、願わずにはいられないのだった。
 だが貴重だからという理由だけでなく、こういう草丈の小さな花には、その小ささゆえに、樹に咲く花などとはまた違う、花に対する愛しさのようなものがこみ上げて来る。
 それらの花の記憶を辿っていたら、亡くなった母の幼い頃の話に思いが重なった。
 「母ちゃん、行って来るね」母は、私の祖母に当たる、染物屋の女房であった忙しい母親の背中に毎朝そう言って幼稚園に出かけたそうである。小学校の入学式の日に母親を亡くした、母の幼い頃の思い出だ。
 小学校の入学式の日に母親を亡くすなどとは、なんと言うことだろう。が、母には姉達がたくさんいて、姉達に守られて母は幸せだった。それから母は姉達と、幾度母親の命日を迎えたことだろう。
 そして私も今年、そんな母の三回忌を迎えた。九十一歳になる、一番上の母の姉、私の伯母が、母にとチョコレートを買ってくれた。その伯母は、母親が亡くなった時には、末の妹である私の母の言うことを何でも聞いてあげようと思ったそうなのである。母親を亡くしたけなげな姉妹達は、オキナワチドリやリュウキュウコケリンドウやシマセンブリのようにいじらしい。

  母の忌や草に埋まる春の蘭                    清子 
 
 今、指宿に住んで、屋久島には高速艇で行くことが出来るが、夫はもう屋久島を訪れることは無いだろうと言っている。その名の示す通り自生地の限られた、オキナワチドリやリュウキュウコケリンドウやシマセンブリにも会うことは無いかもしれない。幼い姉妹達の遠い幻を添えて、その花達の記憶をまたそっと心の奥に納めた。

(2017年5月5日発行、季刊俳句同人誌「晶」20号に掲載)






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by kiyoko_ki | 2018-03-06 10:54 | 南からの贈り物 | Comments(0)

南の島の雪

南からの贈り物

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南の島の雪
                 

 屋久島に雪が降ることをご存じだろうか。屋久島は九州最高峰を抱える島である。標高一九三六メートルの宮之浦岳、一八八六メートルの永田岳、一八三一メートルの黒味岳など、これらは奥岳と呼ばれ、島の中央付近に高く聳える。その周辺を、標高千メートル級の山が囲み、それらは前岳と呼ばれる。たとえば、夫と私の暮らした家から望めたモッチョム岳は、前岳の一つであった。
 南の島でも、標高の高い山があるとなると、冬には雪となるのだ。庭の自然林に、白い山茶花の花を見る頃になると、そろそろ奥岳の初雪の便りがある。
 屋久島の暮らしの中で、元気な頃は、夏には花の多い黒味岳に登ったりした。黒味岳への途中、面白い巨岩を眺めながら進むと、花之江河という素敵な高層湿原に出る。その先の黒味岳に登らずに登山道を進めば、宮之浦岳への途中には、投石平がある。初夏、そこには一面の石楠花が咲く。一度は、その石楠花を見にも行った。その後、私は少し病気をしたのがきっかけで、登山はしなくなってしまった。それでも、夫と共に、車で奥岳への登り口の淀川登山口まで行ったり、その手前のヤクスギランドという自然休養林へ度々出かけた。
 そのヤクスギランドや淀川登山口への県道も、積雪で通行止めになったりした。県道の通行止めの町内放送を聞くたび、私はわくわくするような気持ちになって、雪の様子を想像したりした。花之江河も、黒味岳も、投石平も、雪なのだ。どんな景色なのだろうかと。
 寒さの厳しい朝には、島の南の我が家から見えるモッチョム岳にも雪があったりした。ウォーキングで一緒になる仲間と、その朝の積雪が話題になった。ある年は正月に、モッチョム岳に雪があった。そしてさっと時雨れると、虹がかかったりするのだった。



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  山に雪麓に虹の島新春                  清子

 モッチョム岳は、日曜日に通っていたヨガ教室のある、隣の集落の尾之間の公民館からもよく見えた。モッチョム岳にかなりの積雪がある時などは、公民館が底冷えした。余談だが、その公民館の二階でのヨガ教室はとても良かった。南に太平洋を見下ろし、北にモッチョム三山が聳え、自然に抱かれた中でのヨガは身も心も健やかに穏やかに整えてくれるようだった。
 島の北にある一番大きな集落の、スーパーの三つある宮之浦への買い物のついでに、車で島をぐるっと一周することも多かったが、島の北西の、海亀の産卵するいなか浜のある永田の集落からは永田岳が見えることがあった。奥岳で唯一、里から見える山だ。時雨れずに雪積した永田岳が見えたならば感激である。



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 島の西、海岸から奥岳にかけての原生林の南から北への植生の垂直分布が見られる西部林道、それの始まる栗生では、小楊子川のほとりを散策した折にも積雪した山を見たこともあった。それは前岳の七五岳であるらしかった。




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 ところで、屋久島には岳参りという行事がある。集落ごとに信仰する山が決まっているのだが、我が家のあった原の集落はモッチョム岳だった。集落の代表がモッチョム岳にお参りに行き、その間に女性陣は料理の腕を奮った。といもがらで刺身のつまを作り、煮しめを作り、ぼたもちを作った。岳参りから戻る人を迎え入れ、皆で会食した。そういった行事は、集落の隣保班の十人組と呼ばれる集まりでやることがあって、私も料理の手伝いに駆り出されたことがあったが、貴重な体験だった。

(2017年2月5日発行、季刊俳句同人誌「晶」19号に掲載)






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by kiyoko_ki | 2018-02-24 15:21 | 南からの贈り物 | Comments(0)

バナナ

南からの贈り物


バナナ


               
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 初めて庭でバナナの花が咲いたのは、屋久島に引っ越して二年目の十二月のことである。
 屋久島に引っ越したのは、夫の田舎暮らしの、霜の降りない地で南国の果樹を育てたいという夢があったからだ。最初は東京近辺の房総や伊豆などを探していたが、一緒に暮らそうとしていた私の両親は考えを改めたので、私が思い切って島に行こうと提案した。小笠原などではなかなか土地が手に入りそうもない。それで沖縄だと難しいだろうか、それでは鹿児島の離島はどうだろうと見に行き、屋久島が気に入ってすぐに決めてしまった。
 家が建って引っ越しをして、私はまだ少し仕事があるので一旦東京へ戻ってひと月程経って到着してみると、夫は庭仕事を始めていた。私の居ない間、新しい家と庭には、何やかやと近所の人が訪ねて来たそうである。お向かいのぽんかん畑のおじさん、飛魚漁の漁師さんの奥さん、通りの向こうの自動車修理工場の奥さんなど。どういう訳か、パソコン教室を開くのかと尋ねられたりしたそうだが、残念ながらその予定は無かったのだが。
 夫の庭仕事は、まずは土を耕すところから。庭の土は硬かったのだ。土を耕すと大きな石が埋まってもいた。夫はその大きな石を持ち上げて、並べて花壇を作ったりした。小石もたくさん出てきて、こつこつと何日も何日もかけて、その小石で道も作った。地面が少し斜めになっている所などは、私も手伝って、地面を平らにしたりもした。



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 そうこうするうちに、バナナの苗をもらえることになって、庭に植えた。葉が茂るようになり、雨上がりの朝などには、その葉に水滴が溜ったりして、葉裏から透けて見えるのが美しかった。それが二年目に咲いたのである。



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 バナナの蕾は、濃い赤紫の苞に包まれていて、それが開くと、花は一列に並んでいた。蜜があるのだろう、蟻が来ていたりした。花の根元の子房が膨らんで、何列にもバナナが実ってゆく。青い房状となった実は重たそうだ。最初の頃は、どうしていいのかわからなくて、黄色く色付いたものから取っていったりしていたが、そのうち、青い房ごと収穫して、軒下に吊るせば良いことがわかった。何日かすると徐々に黄色く色付いていくのだった。



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 島バナナと言うのだそうだが、小さめなバナナで、甘いばかりではなく、程良い酸味があって、いかにも果物らしくて非常に美味しかった。いっぺんに食べきれない程の量だ。いつ収穫すれば良いか気にかけてくれたご近所に差し上げたり、自分たちで食べる分の多くは冷凍したりした。黄色く色付いた皮を剥いて、一本一本ラップに包んで冷凍庫に並べた。冷凍したバナナもアイスキャンディのようで美味しかった。
 実のついた株はもう枯れてしまうので、それは夫が伐採した。その伐採した株を片付けるのも重たいので一苦労だった。伐採しても、どんどん地下茎を伸ばして新しい株が出て来るので、バナナを育てるのには、広めのスペースが必要だった。それで、バナナの生育に適した屋久島であったが、何処の家にもバナナがあるという訳では無かった。
 バナナは芭蕉の仲間である。木ではなくて草なのだ。その葉は大きく魅力的である。庭にバナナの葉が茂っているというのは、なかなかいいものだった。

  寝室にバナナの葉影島月夜                       清子

 夜には家の周りは真っ暗になったが、月明かりの晩には、大きなバナナの葉影が、眠りに着こうとする寝室の壁に映って、何とは無しに幻想的だった。何だか浮世離れした心地でもあった。
 ぽんかん畑のおじさんも、飛魚漁の漁師さんの奥さんも、自動車修理工場の奥さんも、皆働き者だった。働き者の島の人々に混じって、夫も庭仕事に精を出し、私もたまに手伝って、庭は年々、姿を変えて行くのだった。

(2016年11月5日発行、季刊俳句同人誌「晶」18号に掲載)






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by kiyoko_ki | 2018-02-09 20:54 | 南からの贈り物 | Comments(2)

タニワタリノキ

南からの贈り物


タニワタリノキ
                                 

 朝早く涼しいうちに散歩に出かける。しばらく歩き回って家に戻る頃になると、南の島の真夏の日差しの強さはもう容赦無くなっていて、じりじりと長袖シャツの中の肌をも焼いた。それでも、自宅近くの狭い道に差し掛かると、木々の枝は低く木陰を作ってくれていてほっとした。近くに迫った頭上の熊蝉はシャンシャンシャンと物凄く煩いのだが。
 屋久島の庭の横にあった小さな谷川沿いにも背の高い自然林が生い茂っていたので、川に面したあたりは、熊蝉の声がとても響いた。その谷川に面した部屋は景色は良く、せせらぎも涼しげで、客人を迎えるのにはお誂え向きだった。
 引っ越して来て初めての夏、立て続けに四組の訪問客があった。そのうちの一人に、植物で繋がりのある友人がいた。彼女は樹木に詳しかった。その彼女が、谷川沿いの庭に影を落とす一本の木に気が付いて教えてくれた。タニワタリノキだと。よく見ると、何本かあるのもわかった。夫も私も、タニワタリノキなどというものを知らなかった。それもそのはずで、その木は、日本では九州南部から南西諸島にしか分布しないものだった。残念なことに、友人が来訪したのは花の時期より少し早過ぎた。


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 夫と私は、タニワタリノキの咲くのを心待ちにした。蕾はまん丸の球形で、それが日増しに大きくなっていった。その球形は小さな花の集合花だった。ある日を境に、つんつんと雌蕊を突き出して、真っ白い花をいっせいに咲かせた。なんて面白い花なんだろう。二人で、こんな素敵な花が庭に咲くのを喜んだ。高い木々からは、熊蝉の声が降り注いでいた。


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 何年かするうちに、夫は、屋久島の野生植物の写真の絵葉書を土産物として出すようになったが、その中にタニワタリノキの花の写真もあって、それは一番人気があった。ある時知人が、これは何という木なのかと、枝を手にしてやって来たことがあった。夫と私は思わず微笑んで、これが絵葉書の中にあるタニワタリノキだと教えた。彼女は、自分のところのぽんかん畑のやはり谷川沿いに、タニワタリノキが咲いているのに初めて気が付いたのだった。屋久島は川の多い島だった。その屋久島の谷川沿いには、タニワタリノキはけっこう多かったのだが、案外、知る人は少なかったりするのであった。
 谷川を覆うように茂るのが、タニワタリノキだった。


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 庭の横の小さな谷川はとっておきの場所だった。夫は庭仕事が終わると、川で手足を洗い、道具を洗った。浅い川ではあるが小さな滝壺もあり、子供が遊ぶにもちょうど良かった。夫の甥の子供達が来た時には、その小さな川で大騒ぎをした。
 私も遊ぼうと、一人ざぶんと滝壺に浸かった。水温が低いので、長く涼むにはウェットスーツを着て入るとちょうど良いくらいだった。静かに水に身体を沈ませていると、透明な蝦が素足をくすぐった。何という名前の蝦だろう。筋模様のあるものだった。手長蝦もいるようだ。それに鯊もいた。海から昇って来た坊主鯊だろうか。夫は、庭仕事の合間に大きな鰻を見たこともあると言っていた。鬱蒼と覆いかぶさっている木々の影が水面に揺れ、暑い夏の一日もゆっくりと流れて行くのだった。


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 タニワタリノキの花はニッキのような香りを一面に漂わせた。それで花が咲いたのに気付くこともあった。開花の期間はことのほか短かかったが、黒い大きな揚羽蝶が訪れたりもした。それはきらきらと輝く川の水の煌きのような、夏の果てようとする一瞬の出来事のようでもあった。やがてあっという間に、花は終わりを告げた。
 熊蝉の声はまだ響いていた。が、季節は少し移ろいだのだろう。夏休みの客人ももう帰ってしまった。夫は庭仕事を、私は散歩を、また始めるのだった。
 
  谷渡る木々の記憶の蟬しぐれ            清子

(2016年8月5日発行、季刊俳句同人誌「晶」17号に掲載)






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by kiyoko_ki | 2017-12-15 09:49 | 南からの贈り物 | Comments(0)

南からの贈り物


                                 

 「その李はこっちでは生らないよ。」
 屋久島のうちの裏のほうに住んでいるおばさんが、うちの庭の李の木を見て、笑いながら言うのだった。その前に、移り住んで間もなくの頃、李の木を分けてあげようと言ってくれる人もあったが、うちにはうちの李の木があるので断ってしまった。が、夫が取り寄せて庭に植えたそれは本土のもので、屋久島で言う李とは違うのだった。
 屋久島の李は、奄美プラムなどとも呼ばれるもので、台湾原産のものだった。花は本土のそれとほとんど変わらないが、実が私のそれまで知っていたものとは違った。黒っぽい濃い赤い実なのだった。
 かわいそうに、うちに植えられた本土の李は、何年経っても、花もいつ咲かせればいいのかわからない様子で、やはり実を付けることも無かった。
 梅雨間近、照葉樹林の中に、むうっと香りをさせて椎の花が金色に輝く頃、県道に沿う無人市のあちらこちらで、黒っぽい李が並んだ。無人市の野菜や果物は大抵一袋百円だったか。お金を入れる箱にちゃりんと百円玉を入れて、お目当てのものを買う。


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 初めて李を買ったときは、芋焼酎に氷砂糖を入れて李酒を作るといいよと教えてもらった。適当に作ってみたが、時間をかけてゆっくり李の赤い色が焼酎に移り、美しく美味しい李酒が出来あがった。そのお酒を、何年かに渡ってちびりちびりと大切に飲み、最初は赤い色が綺麗だったが、最後のほうには、熟成したかのような琥珀色になった。


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 ジャムを作ったこともあったし、ジュースなどにもしたり、毎年、毎年、李を楽しめた。そのうち、知り合いから李をもらうこともあった。
 指宿に来てからも、こちらの李も屋久島のものと同じと判って、ああ良かったと嬉しかった。
 屋久島を思い出させるような激しい雨の合間、近所の人が親戚の畑で収穫したという李をくれた。早速、私はジュースにした。鬱陶しい梅雨に李ジュースを味わうのは格別である。勿論、真夏にも大いに喉を潤し、晩夏になり残り少なくなるのを惜しむのだった。そんなふうにその夏も李をたんと楽しんだ。
 指宿の地元の八百屋にもその李を見つけたし、気が付けば、その木はけっこうあちらこちらで見かけるのだった。


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 こちらで少し、あちらで少しともらった李を足して、とうとう変わった李ジャムも作った。八角とシナモンのスパイスを入れてみたのだ。そんなジャムもなかなか面白いのだった。李を煮詰めてスパイスを入れると、出来上がった時には、黒に近い色になった。
 料理に使えるようなフルーツソースとして作っておくのもいいかもしれない。そのソースを、肉や魚のソテーに添えてもいいし、もちろんデザートに使うのもいいだろう。きらきらと輝く、濃い赤いゼリーもいいし、生クリームと合わせて、シックな大人っぽいピンクのムースも出来るかもしれない。
 田舎暮らしには、デパ地下も無ければ、お洒落なカフェなどというものもほとんど無い。食べることを楽しみたかったら、自分で作ることが一番だ。地元の農産物、肉、魚など、その土地ならではの調理の仕方、楽しみ方もあろうが、時にはそれに自分で仕入れたプラスアルファを足してもいいものである。
 もちろん第一には、新鮮な食材のあることが、この上なく幸せなことである。

  ひと籃の暑さ照りけり巴旦杏       芥川龍之介

 李には種類がいろいろあるようだが、巴旦杏もその一つだそうだ。こちらの李とは少し違うだろうが、こちらの李にもこんな風情がある。山と盛った李をさて、今年はどんなふうに楽しもうか。


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(2016年5月5日発行、季刊俳句同人誌「晶」16号に掲載)





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by kiyoko_ki | 2017-12-10 10:31 | 南からの贈り物 | Comments(0)

二月の墓に

南からの贈り物


 二月の墓に 
   

 東京を離れてからというもの、桜に恋い焦がれていた。樹齢の多い立派な桜の大木、町並みに続く桜並木、そんなものを懐かしむことがあった。屋久島の里や、指宿の町中で、染井吉野のような桜も無いことはなかったが、あまり楽しめなかった。恐らく、冬の寒さが足りないのだろう。見事には咲かないし、少し寂しいものだった。


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 その代わり、まずは緋寒桜がこちらでは咲いた。沖縄などにも多い緋寒桜は濃い花の色で、私の恋い焦がれる桜のイメージとは異なっていたが、それは春を待つ桜であった。南の地で桜と言えば、緋寒桜と言っても過言ではない。昨年、夫と二人何も知らず、母の亡くなる直前にも緋寒桜を楽しんでいた。


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 緋寒桜を楽しんだその指宿の植物園で、母の亡くなった後に、早咲きの、春一番の伊豆の踊り子という桜を眺めた。伊豆の踊り子の花の色は、緋寒桜とは違って春らしく柔らかく、そして、染井吉野よりも華やかでさえあった。暖かい日差しの中で、しかしまだ二月だというのに、春爛漫な気配を漂わせていた。そんなに大木ではなかったし、桜並木という訳ではなかったが、その数本の桜が、母を亡くしたばかりの私を、明るい気持ちにさせてくれた。


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 父が亡くなったのも二月であった。その二月の終わりには、指宿ではそろそろ白い大島桜が咲く頃となる。それは近くの小高い山である魚見岳の道を登りつめた所に、すっくと立っていた。これも私の恋い焦がれる桜とは違ったが、凛とした美しさはあった。

  手鏡や二月は墓の粧ひ初む        石田波郷

 その粧い、それは一体どんなものだろう。
 早春とはなるものの、父母の亡くなった二月の福岡では、底冷えのする日もあったし、雪がちらつく日もあった。が、母の住まい近くでは、白梅が咲き始めてもいた。
 二月の墓に、そんなけなげな白梅や、うちの庭にある愛らしい紅梅もいいかもしれない。が、福岡の父母の墓に、南国に住む私からは早咲きの桜を送ろう。夫と見た、あの美しく華やかな伊豆の踊り子の桜を母に、落ち着いた穏やかな感じのする白い大島桜を父に、手向けてみたいと思ったりする。母は何事にも前向きで明るく、父は物静かで優しかった。
 母の最後の住まいを手放した折に、ポストのネームプレートを記念にもらった。その旧姓の字面を眺めて、もともとは、祖父、祖母、父、母、私の五人の家族であったこと、その家のあったことを思い、しみじみとした。また、夫と私の田舎暮らしにより、父母の晩年には少し番狂わせをさせたのではと、やや胸の痛い思いもするのであった。
 ところで、私は、俳句は父が亡くなった後より始めた。「晶」が立ち上がってからだ。同人になってからは、「晶」をお供えしたりもしている。父は、母よりも、俳句に関心がありそうな気がしている。父に私の句を読んでもらったら、どんな感想をくれたかしらと思う。母は母で、私が俳句をやっていることを、親戚に話題にしてくれてもいたようだ。
 父が亡くなって、父の句を幾つも作ったが、母の句はあまり出来なかった。清子さんはお父さん子だったからと言われることもあったが、それが、母を亡くして、母の句もたくさん作るようになった。亡くなった父母を詠む時、それが至らない娘から父母への、精一杯の詫び状、そして感謝状ともなっているといいのだがと思う。
 恋い焦がれる桜への思いが、いつか薄らぐことはあるだろうか。どうだろう。今ひとつ確かに言える事は、南国の桜たちはここにあり、二月という忘れがたい月に、これからも毎年、咲いてくれるであろうということだ。

(2016年2月5日発行、季刊俳句同人誌「晶」15号に掲載)






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by kiyoko_ki | 2017-12-01 14:05 | 南からの贈り物 | Comments(0)

石蕗

南からの贈り物


石蕗


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 石蕗の俳句に、暗い印象のものも多いのが、私にとっては意外だ。
 私のよく見知った、鹿児島の屋久島や、今住んでいる指宿近郊の、石蕗の一面に咲くその明るさは眩しいばかりだ。確かに、東京に住んでいた頃、実家の玄関脇に植えられていた石蕗は、咲いたかどうかも記憶に怪しいくらいであったが、そういうほんの少し植えられたものと、南国の地に群生してのびのびと咲くものとでは、人に与える印象もとんでもなく違うものなのだろう。
 海鳴りの響く日溜りで咲く石蕗なども、実に明るい気持ちにさせてくれるものである。そして、こんな句の心情がよくわかるのだ。

  石蕗咲くや心魅かるる人とゐて        清崎敏郎

 以前住んだ、屋久島の家の周りでは、石蕗がたくさん、見事に咲いた。周り中黄色くなって、温かな気分に包まれたものである。その黄色は幸せの色だとも思った。
 花は切り花にしても長持ちはせず、咲いているままを楽しむのが一番だった。
 屋久島の北の方より咲き始め、やがて島の南の方にも咲くようになると、島をぐるっと一周出来る県道に車を走らせる時など、島中が黄色く染まったような感じさえした。


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 石蕗は、食材としても人気があった。
 私は、当時、美容院ではなく床屋に通っていたのだが、そこのお姉さんが、春先になるといつも私に尋ねた。つわはもう炊いたかと。
 お姉さんは辛口の話が面白い人だった。そして、何より集落の情報には長けていて、いろいろな話を聞かせてくれた。引っ越して来て最初の正月明けには、今日は、家に祝い申そうが来る日だから、祝い申そうを謡ってもらったら、ご祝儀をあげて、お酒を振る舞うんだよと教えてくれた。それを教えてもらうまで、そんなものが家に来るなんて、全く知らなかった。お姉さんは面倒見のいい人でもあったのだ。 
 さて、話は石蕗だ。
 床屋のお姉さんだけではない。集落で出会う顔見知りのお姉さん達に、口々に、もうつわは炊いたか、食べたかと聞かれるのであった。
 石蕗の若葉が出かけているくらいのものの、根元のほうの茎をぽきっと折る。葉はむしり、茎の皮をすうー、すうーっと剥いていく。そんな作業を続けると、爪が真っ黒になる。水に漬けてあく抜きを少しする。


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 その季節には、家の周りでも、散歩に出かけても、つわを取る人の姿が見かけられた。そして気が付くと、私も散歩の最中に、石蕗の若葉を見つけると通り過ぎることが出来ずに、一本、また一本と、歩きながら手にして行くのだった。
 きっとお姉さん達は、鹿児島の甘い味付けで煮物に入れたりするのだろう。私は、あっさり煮てすりごまを散らしたりしてみたが、優しい野の幸といった感じで、それも美味しかった。
 隣の集落の市の、知らないおばちゃんとの立ち話では、若葉を天ぷらにしても美味しいと教えてもらったこともある。庭やご近所からなどのさつまいも、山芋、さやえんどうと人参としめじ、三つ葉、蓬、それらと共に、石蕗の若葉の天ぷらを揚げたが、ほのかな苦味と香りが美味しかった。これも、なかなか乙なものだった。
 今の指宿の家の庭にも石蕗があるのだが、それを食べないのかと聞かれることもある。私はまだ、こちらの庭のは食べたことがないのだ。最近知り合った奄美大島出身の人も、我が家の石蕗を見て、奄美でよく食べていたことを話してくれた。
 春先には、スーパーの地元野菜のコーナーに石蕗の茎が並ぶこともある。
 あたり一面、何処でも取り放題の屋久島だったが、指宿近郊の公園では、次のような看板も立つ。
 「ここのつわぶきは観賞用なので取らないでください。」
 これには笑ってしまう。花としても、食材としても、愛される石蕗である。

(2015年11月5日発行、季刊俳句同人誌「晶」14号に掲載)






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by kiyoko_ki | 2017-11-23 11:37 | 南からの贈り物 | Comments(0)

幻のたこぶね

南からの贈り物


幻のたこぶね


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 岬まで行ってみるけれども一緒に行くかと、夫が聞いて来た。
 亡くなった母の物など片付いていないので、出かけるのもあまり気が進まないが、家に閉じこもってばかりいるのも良くないだろう。それで薦められるまま、出かけてみることにした。と言っても、家から車で五分である。
 夫は見たい植物があるのだと言う。私は浜辺を歩くことにした。
 風も無く、海は穏やかだった。浜は潮がだんだん引いて来る時刻だったようで、打ち上げられた貝殻や海藻などが続いているのが列をなしている。波が静かに打ち寄せる波打ち際が気持ちが良い。裸足になって、波打ち際をたまに海水に足を浸けながら、岬の先端へ向けてゆっくりと歩いて行った。


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 だいぶ歩いた頃、濡れた砂の上に、面白い物を見つけた。それは蛸のようだが、貝殻を背負っている。もう生きてはいないようだったし、大事に持ち帰ることにした。だいぶ離れてしまった夫の居る場所まで向かった。夫は、ハマゴウやテリハノイバラやハマヒルガオのある浜の奥で、お目当てのハマボウフウの写真を撮っているのだった。私は、その蛸を差し出してみせた。
 「たこぶねかな、かいだこかな。面白い物を拾ったね。」と、ビニール袋を出してくれた。夫のカメラバックには、いつもビニール袋が用意されている。それは、植物の果実や種を入れる為であったり、貝殻を入れる為であったりした。
 家に戻って、図鑑などで調べる前に、リンドバーグ夫人の『海からの贈物』を広げてみた。それにたこぶねは載っていた。

 浜辺で見られる世界の住人の中に、稀にしか出会わない、珍しいのがいて、たこぶねはその貝と少しも結び付いていない。貝は実際は、子供のための揺籃であって、母のたこぶねはこれを抱えて海の表面に浮び上がり、そこで卵が孵って、子供たちは泳ぎ去り、母のたこぶねは貝を捨て新しい生活を始める。(『海からの贈物』「たこぶね」リンドバーグ夫人、吉田健一訳)

 が、後日、図鑑などよく調べてみて、それはたこぶねではなく、似た種類のアオイガイ、別名かいだこのほうであることがわかった。背負っている貝殻が少し違っていて、しかし、生態は似たようなものであるらしい。
 幻のたこぶねではあったが、それらの母性を思う時、亡くなった母のことにも考えが及ぶ。
 実家に長らく居座っていた私が、ようやく遅くに結婚し、母は肩の荷を降ろしたようであった。
 しばらくして、東京を離れ田舎暮らしを始めた夫と私であったが、両親は同じ九州でも、二人の生まれ故郷の福岡に東京より戻って暮らすことを選んだ。父が亡き後、母は福岡の都会でのマンションの気ままな一人暮らしを好んだ。
 母は、周りの人にいつも、ピンピンコロリで逝くのよと言っていたそうである。また、私に迷惑をかけてはいけないとも言っていたようである。それで、少しばかりの老いはあったものの、本当に誰にも迷惑をかけることなく、亡くなる前日まで元気でいてくれた。
 久し振りに会った年末年始、母の足の爪が伸びているのに気が付いて切ってあげた。膝が曲げにくくなっていたので、自分で切りずらかったようだ。娘に足の爪を切ってもらうようになるとは思ってもみなかったと、母は言った。それが、母との最後の思い出の一齣となった。


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 さて、持ち帰ったかいだこだが、写真を撮ったあと、蛸のほうは、顔見知りの猫に見つかって、それはそれは美味しそうに食べられてしまった。それは、海の物を土に返すよりも、よっぽど良かったに違いない。


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 残された貝殻は美しい。光に透かせて、その繊細な襞の織りなす影に見惚れる。が、もっと稀なるたこぶねも、いつか出会える時があるだろうか。それは、生涯に一度あったとしたらとても幸運だ。浜辺歩きに、幻も求めてみようか。

(2015年8月5日発行、季刊俳句同人誌「晶」13号に掲載)






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by kiyoko_ki | 2017-11-15 14:41 | 南からの贈り物 | Comments(2)

ヤブサメ

南からの贈り物


ヤブサメ


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 屋久島の早春、木の芽流しが始まる。タブノキは赤い葉を、ハマビワは銀白色の葉を広げ始める。そんな照葉樹林の木々の芽吹きの時期の雨を、屋久島では木の芽流しと呼ぶ。


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 木の芽流しが続いた、湿潤で生暖かなある雨上がりの朝、しばらくぶりにベランダに洗濯物を干していると、モッチョム岳の麓にある家の、庭の横に流れる小さな川の向こうの藪より、シシシシシと声が聞こえて来る。ヤブサメの囀りだ。そのシシシシシは虫の声のようにも聞こえるが、尻上がりに調子の上がって行く囀りを聞いていると、耳にする嬉しさが込み上げて来る。
 ヤブサメは、ウグイスの仲間だ。藪の地面近くに潜んでいるようだった。川向こうということもあり、姿を目にすることは無かった。が、その囀りを聞くだけで、見たことは無いが、愛着が沸くのだった。
 ヤブサメは、夏鳥として、東南アジアなどより、日本に飛来するそうである。早くも屋久島の木の芽流しの頃、里で聞かれた囀りは、夏には屋久島の標高の高い山で聞かれるという。そんな頃には、日本の各地の山や藪などで聞かれることであろう。
 屋久島より移り住んで来た、今の指宿の家は、住宅街の一角にある。車で十分程出かけた林で、昨年の夏のいつ頃であったか、ヤブサメの囀りを聞けた。しみじみ懐かしかった。あの屋久島の朝の思い出が蘇った。
 夫が、「ヤブサメは高尾山でも聞けたね。」と言う。そうだったっけ、私は記憶の糸を手繰り寄せる。生まれ育った東京で、夫と出会ってからは、共に中央線に乗って、高尾山によく通った。ヤブサメの囀りの聞こえたのは、渓流沿いの六号路であろうか、四号路の吊り橋のあたりだったであろうか、それとも日影沢であったろうか。考えを巡らせていると、そう、確かに、高尾山でヤブサメを聞いていたのだなと思えて来るのだった。それを初めて聞いたのは、やはり、高尾山においてであろう。その時、それがヤブサメという鳥であるということを、夫に教えてもらったに違いない。私は、ヤブサメの囀りが好きになった。それが、東京より屋久島に移住して、家のベランダから聞けた時は、とても嬉しかったのだ。屋久島の日々を重ねるうちに、東京の高尾山でのヤブサメの囀りの記憶が、ちょっと遠のいていたのかもしれない。
 もう指宿でも、ヤブサメの囀りが聞ける頃だろうか。囀りを聞くにはやはり朝がいいだろうか。朝、書斎にこもっている夫は出かけようとしないので、そうだ、私一人、歩いて近くの魚見岳に行ってみようかしらと思い付く。あそこならば、ヤブサメも居るに違いない。魚見岳は、時には砂州で繋がる知林ヶ島や、開聞岳や、桜島も望める小高い山だ。


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 ウグイスなどとは違って、住宅街の庭などには現れないヤブサメである。たとえば山道を降りながら、その囀りを耳にするのが夕暮れ時であったらどうであろうか。

  やぶさめや漸くにして里曲の灯      木津柳芽

 暗くなりかけた山道にあって、その囀りが続くばかりでは心許ない。やっと人里の灯の見える場所に出て、安堵の気配がうかがえる。
 ところで、ヤブサメの囀りは高周波なので、年齢を重ねて来ると、その囀りが聞こえなくなる人もあるらしい。実は、このエッセイを執筆途中に、急に母を亡くした。母はとても元気な人であったが、少し耳が遠くなりかけていた。ヤブサメの囀りは、母には聞こえなくなっていたかもしれない。
 私より一回り年上の夫も、「清子がヤブサメの声がすると言うのに、それが私には聞こえないという時が来るのだろうか。」と呟く。そんな日も、いつか来ることもあるだろうか。が、それまでまだ、もうしばらくはあるだろう。遺された私と夫で、仲良く元気に暮らして行こうと思う。その思いを、亡き母に伝えたい。

(2015年5月5日発行、季刊俳句同人誌「晶」12号に掲載)







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by kiyoko_ki | 2017-11-10 11:13 | 南からの贈り物 | Comments(3)

エトセトラエトセトラ・・・きよこ


by kiyoko_ki
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